注目すべき(?)セクハラ判決

 

大きく報道されたのでご存じの方も多いと思いますが、大阪の海遊館で、管理職2人が、20~30代の女性の派遣労働者ら2人に対して、性的で不快感を与える言葉を日常的に繰り返した結果、とうとうその女性らは退職に追い込まれた、このことについて会社が行った降格などの処分が重すぎると、加害者である管理職2人が争った事件です。

原文はこちらです。

はっきりいって、こんなあたりまえの認定がされた判決が「画期的」と注目されてるんだから、日本のお寒いセクハラ事情、前途はまだまだ厳しく険しいと感じざるを得ませんが・・・

とはいえ、日本の裁判所も、あたりまえのことをあたりまえに言うようになった、それはそれで大いなる前進です。その意味で、たまには(というより、選択的夫婦別姓問題などの大法廷回付といい、ここ最近続いているかな)最高裁もいい判断をするものだと率直に思いました。

なんといっても、今回の判決は、職場におけるセクハラという問題の本質を的確に捉え、このように明確に述べています。

被害者が内心でこれに著しい不快感や嫌悪感等を抱きながらも、職場の人間関係の悪化等を懸念して、加害者に対する抗議や抵抗ないしは会社に対する被害の深刻を差し控えたりちゅうちょすることが少なくない

つまり、イヤでもイヤと言えない、職場における自分の立場を守る、場合によっては雇用そのものを守るために、我慢せざるを得ない、そういう状況(力関係)こそが、セクハラの問題の核といってもいいくらいでしょう、この点を、最高裁が改めて明確に宣言してくれたのは、ほんとによかった。

そしてセクハラとされた発言そのものについても、「きわめて露骨で卑わいな発言」「著しく侮蔑的ないし下品な言辞で(被害者ら)を侮辱し又は困惑させる発言」と断じ、「いずれも女性従業員に対して強い不快感や嫌悪感ないし屈辱感等を与えるもの」であったと明確に認定しました。

このように、被害者はイヤと言えない立場にあったこと、問題とされた発言そのものも相手に強い不快感等を与えるものであったこと、この2点を挙げて、判決は、加害者らの「相手はイヤだと言わなかった。だから嫌がっているとは思わなかった。許されていると思っていた。」という弁解を退けています

ここで改めて注目していただきたいのは、加害者らの”悪意”は、一切問題にされていないということ。つまり、「性的」発言によって女性従業員らを不快にさせたり、困惑させたりする”意図”があるかないかということは、その発言が違法なセクハラ行為であるかどうかの判断にあたって、考慮されない、その必要がないということです。

あくまでも、いうならば常識的な社会人の目から見て、当該言動が相手に不快感を与えるものであるかどうかということが、検討されるのです。

そのような言動であれば、加害者も「これを言ったら相手は不快に思うだろう」ということを認識している(できる)はずだし、また当然に認識して(できて)いなければならない、ということですね。

この点は、「単なる冗談」「職場の潤滑油」「親しみの表現」といった、加害者側の、悪意(不快にさせる意図)なんかないのだ、むしろ、職場を明るくしようだとか相手を楽しい気分にさせようという善意だとか好意だとか、そういう意識でしたことであるという趣旨の弁解を排除する、重要なポイントといえるでしょう。

これに対して、「少々のエッチなジョークにいちいち目くじらを立ててたら職場がぎすぎすする」という、加害者層のオジサンたちから聞こえてくる根強い言い分。

よくも恥ずかしげもなく、そんなことが言えたものだといつも思うのです。

「冗談」とは、その場にいる誰もが楽しめて、初めて「冗談」たりうるもの。

「潤滑油」も同じ。その場にいる人たち全員が「潤滑」されなければ意味がありません。

その中の誰か1人が、苦痛や不快感を感じ、それを我慢しているのだとしたら、それは「冗談」でも「潤滑油」でもありえません。

また、「親しみ」の表現は、相手との距離感を適切に図りながら、その距離感に応じてきちんと選ぶことが、大人の当然のエチケットですね。

こうした、対人関係において相手の心情に配慮した態度をわきまえ、あるいは当然のエチケットを守ることで、「職場がぎすぎすする」というのなら、それは、その人たちの人間性・社会性の未熟さゆえの問題。

それを自白するような「オジサン」たちの言い分、でもぱっと聞くともっともらしく聞こえてしまう「オジサン」たちのジョーシキなど、裁判所は一顧だにしませんよ。今回の判決は、そういう宣言とも捉えたいですね。

この判決のもうひとつ重要なポイントは、加害者らが繰り返したとされる発言の中に、

30歳になっても親のすねかじりながらのうのうと生きていけるから、仕事やめられていいなあ、うらやましいわ

毎月、収入どれくらい。時給いくらなん。社員はもっとあるで。

お給料全部使うやろ。足りんやろ。夜の仕事とかせえへんのか。時給いいで。したらええやん。」「実家に住んでるからそんなん言えるねん、独り暮らしの子は結構やってる。MPのテナントの子もやってるで。チケットブースの子とかもやってる子いてるんちゃう。

といった、その言葉の意味内容そのものは必ずしも「性的」とはいいがたい、性差別的ではあるけれども「セクシャル」という語感にはやや違和感を覚える発言も、「セクハラ行為」と明確に位置づけられている点です。

つまり、セクハラとは本来、相手に甚だしい不快感(苦痛、屈辱)を与える性差別的な言動(ジェンダー・ハラスメント)と表現されるべきであったのかもしれませんね。

上記の発言の中にもあるように、女性従業員を「テナントの子」「チケットブースの子」などと呼んだり、女性だけ下の名前で「ちゃん付け」するなどということが、典型的な「セクハラ」の例としてしばしば挙げられながらも、加害者層である「オジサン」たちにはなかなか理解されません。

それは、「セクシャル」「性的」という言葉なり語感なりに囚われているからでしょうね。

これらの発言がなぜ「セクハラ」とされるかといったら、それは、女性を一人前の大人扱いをしない、自分たちと対等な働き手としてみないといったように、女性であるがゆえに差別する意識が露骨に現れていることが、相手に苦痛や屈辱を与えるからです。

職場において、女性に苦痛や不快感を与える言動の典型が「セクシャル」「性的」なものであることはまちがいないけれども、必ずしも文字どおり「性的」な意味内容の言動だけが問題なわけじゃありません。そのことは、ぜひぜひ理解していただきたいと思います。