2015年1月 のアーカイブ

モラル・ハラスメント(モラハラ)という言葉

2015年1月29日 木曜日

「モラル・ハラスメント」(モラハラ)という言葉が、かつての「セクハラ」のような誤解と偏見をはらんで広がろうとしています。

私がここでどんなにもどかしい思いで、一生懸命言葉を発しても、広まってしまった誤解や偏見を修正する力など全くない。

けれども、私の発する言葉(情報)を必要とする人には、きっと届くだろうことを祈って、私は私の場所で、語り続けようと思います。

それは、拙著でも随所にその問題意識を記しましたが、「モラル・ハラスメント」という言葉に囚われないでほしい、ということ。

モラル・ハラスメントという言葉は、何とも言葉にしようのなかった苦しみに、明確なかたちを与えてくれます。それが「暴力」なんだということを、気づかせてくれます。

この辛さは、自分が悪いからでも、弱いからでも、至らないからでもない、被害妄想でもない、相手は正しいことをしているのではない、理不尽な暴力を振るっているだけなんだ、ということ。だから辛くてあたりまえなんだということ、そして、そこから逃げてもいいんだ、ということを、この言葉は教えてくれます。

この「気づき」の後には、加害者との対処の仕方を考える重要な指針を与えてくれます。

加害者には、独特の思考パターン・行動パターンがあります。

独特のパーソナリティといってもいいでしょう。

それは、あなた自身が相手との生活の中で、嫌というほど骨身にたたき込まれたことでしょう。

相手の支配下にいたときには、それがあたりまえだとか普通だとか思いこんでいたであろう、その異常な思考・行動パターンを、異常なんだとはっきり認識した上で、冷静に整理して、頭の中にしっかり入れておく。

それは、別居の方法やタイミングに始まり、今後の離婚紛争や子どもとの面会交流、離婚成立後にも起きてくるいろいろな問題への対処を考えたり見通しを立てるなど、今後この問題に対処するあらゆる場面で、最も重要な指針になります。

なにより、その中で絶え間なく加えられる有形無形の嫌がらせや攻撃(それはきっと、あなたにしかそれと分からないものも少なくないでしょう)から、自分の心を守るうえでも、大いに役に立ちます。いうならば、相手の嫌がらせの手口と手の内が分かっているということですから、以前ほど傷ついたり打撃を受けたりせずにやり過ごせる、精神的なゆとりができます。

あなたは、そこまでにしましょう。

ときに、相手の人格をもっと深く分析したり、非難したり報復したりしたくもなるでしょう。

それを全くするなとは言いません。

そういう時期もある。

でも、そこそこにしてください。

相手と決別すると決めたのなら、もう相手のことも考えない。しっかり前を向いて、自分たちの幸せのことだけを考えて、自分の人生を歩いていきましょう。しんどいときは、誰かの手を借りて。

憲法おばちゃん語訳、「ヘイトスピーチ」の問題

2015年1月23日 金曜日

book1 『日本国憲法 大阪おばちゃん語訳』、注意しながら読んでいただきたいことの2つめは、1つめで例に挙げた「表現の自由」との関係で、「ヘイトスピーチ」について、「これって、守らないといけない表現なんでしょうかね?」という問題提起がされているところです(72ページ)。

「ヘイトスピーチ」とは、いうならばむき出しの言葉の暴力、ですよね。

こんな言論、許されるはずがないってことは、たぶん誰もが思うことではないかな。

問題は、「新たな」立法によって、「ヘイトスピーチ」という「新たな」カテゴリーを設けて、それに対して規制をかける、という方法をとることが許されるのかどうか、という点にあると思っています。

「ヘイトスピーチ」とされる言論のほとんどは、名誉毀損や侮辱、脅迫、威力業務妨害など、今すでにある法律で、充分に規制することができるものばかり。(警察はなぜそれをしないのでしょう???)

これらとは別に、新たに、「ヘイトスピーチ」だとか「憎悪表現」だとか「差別的表現」といった類型を設けて、新たに規制の対象にする、そういうやりかたが、はたしていいのかどうか、ということが、「ヘイトスピーチ」の問題なんですよね。

すでにある法律を活用せず、新たに規制をかけるということは、国家権力に対して新たにまたひとつ、「表現の自由」を抑圧する道具を与えることを意味します。

およそ規制とは、その法律の作り方や運用によって、いかようにも濫用・悪用されてしまうもの。そういう危険を、ことこの「言論」という「重い」つまり「デリケートで傷つきやすい」人権において、冒していいのかどうか。そこが、問われているのではないでしょうか。

このあたりも、この本ではもうひとつ言葉が足りなくて、ちょっと残念だなあ・・・、というのが2つめ。

憲法の「はじめの一歩」

2015年1月21日 水曜日

book1

『日本国憲法 大阪おばちゃん語訳』(谷口真由美(著)、文藝春秋(刊))を読みました。

まず何よりも「憲法を知る」という「知憲」からスタートしましょうというこの本、徹底的にわかりやすく憲法を解説しています。

何かと憲法が話題になる今日このごろ。でもどれだけの人が、憲法にはどんなことが書いてあるのかということはもちろん、そもそも憲法って何?ということ、知っているでしょう。

この本に書いてある程度のことは、学校で、せめて高校の社会科でしっかり学ばせてほしいと常々思っています。

学校では、憲法といえば「いちばん強い法律」で、「平和主義」と「基本的人権の尊重」と「国民主権」の3原理を丸暗記させられて終わり。その中身についてきちんと説明されることもない(多くの教師が正しい理解も知識も持っていないように思う)。

かくいう私も、司法試験の勉強を真面目にするようになるまで、憲法のなんたるかなんてぜ~んぜんわかっていませんでした(苦笑)

だからこそ、「知憲」。いっとき「論憲」ということがいわれたけど、その前に「知」らなきゃハナシになりません。

最近、「知憲」というコンセプトの本がけっこう出ていて、実は私も密かに計画しているところなのですが、この本は私が知る限り「はじめの一歩」としていちばんお勧めな一冊です。

特に、4章の「憲法って、誰のモンなん?」は秀逸です。ここはまるごと高校の教科書に転載してほしいくらい。

 

ただ、徹底的にわかりやすい「はじめの一歩」の本の宿命として、どうしても、言葉が足りないことで却って分かりにくかったり、誤解しやすかったり、必要なことが伝わりきらないなあ、と感じることがあります。 この本も全体的にそういうところが避けがたくあるのですが、特に以下の3点に、注意して読んでいただきたいと思います。

1つめは、「人権」の総論的なところで、人権に「重い」とか「軽い」とかがある、という部分(70ページ)。

ここは、必要な言葉がちょっと足りないと思いました。

人権に「重い」「軽い」があるというと、たとえば「表現の自由」(精神的自由権)のほうが「職業選択の自由」(経済的自由権)よりも重要、あるいは価値が高い、みたいなイメージをもってしまいませんか。

ですが、人権の「重い」「軽い」はそういう意味ではありません。

ではどういうことかというと、まず前提として、どんな人権も、国は法律などによって、必要な制限を加えることができます。たとえば、「表現の自由」に対してなら、名誉毀損はいけないよとか、「職業選択の自由」に対してなら、管理売春はいけないよ、というように。

憲法とは、その制限について、ここまでの制限ならよろしい、これ以上はいけない、というように、その制限に厳重な縛りをかけるという役割をもつ法規です。

実際にそのチェックをするのは裁判所ですが、このチェックにおいて、「人権が重い」とか「軽い」が出てくるわけです。

つまり、最も「重い」とされる「表現の自由」については、もう重箱の隅をつつくような厳重なチェックが必要(現実の裁判所が実際にそういう厳重なチェックをしているかどうかはさておき)。

なぜなら、権力の側としてみたら、自分たちに都合の悪い言論は封じたいわけだから、「表現の自由」を抑圧できたら好都合。

でもひとたび「表現の自由」が抑圧されたら、人々の心は萎縮し、言いたいことを言うことをためらってしまう。権力が積極的に抑圧することなく、国民自身が植え付けられた恐怖感で「自粛」するようになってしまう。

再び「自由」を取り戻すのは、とてもたいへんです。

まさに、DVと同じ構造ですね(苦笑)

他方、「軽い」とされるほうは、それよりは緩めのチェックでもよろしい、ということです。

「軽い」とされる人権は、主として「経済的自由権」とよばれる、職業選択の自由とか営業活動の自由などですが、それに対する制限については、弱者も共存共栄できる健全な経済社会を維持するとか、社会保障費などの財源を確保するなどの必要もあるし、そのために国会や行政庁の裁量や判断も尊重しなければいけない、と考えられています。また、その裁量や判断が間違ったときにも、軌道修正は比較的容易です。

たとえば、大規模店舗法で、デパートなどは一定の休業日を設けなければならないとか、夕方の何時以降は営業してはいけないとか、ちょっと前まではありましたよね。デパートの営業活動の自由に対して、かなりきつい規制がかけられていたわけです。でもそれは、周辺の小規模店舗を守るための合理的な規制として、憲法上許されると考えられていました。それが最近は「規制緩和」の嵐で、今のように元日以外は休業せず、夜の9時10時までやってるのが普通になったわけですが。

ともあれ、「表現の自由」は「他よりも価値が高い」から大事にするのではなく、「他よりもデリケートで壊れやすい」から、大事に取り扱いましょう、というイメージでしょうか。

人権の「重い」「軽い」とは、こういう意味です。

とりあえず、今日はここまでにいたします。2つめ以降は、また後日。