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憲法おばちゃん語訳、両性の平等・再婚禁止・離婚後300日規定

2015年2月5日 木曜日

 

 

book1最後の3点め、これが本書で最も、というか唯一、残念でならない部分。両性の平等ということに関して、2つあります。

ひとつは、戦前の憲法下では、妻は「無能力」とされていた、ということの説明の部分。

「結婚するまでは父親の、結婚してからは夫のモノとされ」ていた、「今でいうたら、スーパーマーケットのポイントカードすらつくられへんみたいな感じ」というところです。(79ページ)

これは、ちょっと違います。

旧憲法の時代、結婚した女性が、たとえば家を買うとか、大きな借金をするとか、そういう重要な契約をするには、夫の許可が必要であった、ということはありました。

これは、「無能力」というよりも「制限能力」というべきもので、あらゆる契約ができないというのではなく、一定の重要な(言い換えれば、大きなお金のからむ)契約に限って、夫の許可が必要とされた、というものでした。今で言う、スーパーでの買い物やポイントカードのような日常的なものは、夫の許可は必要ではありません。(もちろん、こんな制度そのものが不当な男女差別であることはいうまでもありませんよ)

また、女性も成人していれば、結婚する前はこのような制限はなく、一人前の成人と扱われましたから、成人女性に関しては「結婚するまでは父親のモノ」というわけでもありません(それで結婚したとたん、「制限能力」とされたんです。おかしなハナシであることは間違いありません)

当然ながら、成人するまでは親の親権下にあることは、今も昔も男も女も同じこと。

未成年者は、基本的にはどんな契約をするにも親権者の同意が必要です。(でもポイントカードくらいは未成年者でも作れます)

繰り返しですが、成人の結婚した女性がこのように、夫に従属するみたいにされたことは、不合理きわまりない男女差別でした。

それはそのとおりなのですが、その説明の方法として、この本に記載されている上記の表現はいずれも、正確ではないといわなければなりません。

まあこれは、本論にはあまり関係のないことなのですが、やはりちょっと残念。

何より残念なのが次の点。

民法の、女性の「再婚禁止期間」と、「722条の嫡出推定」に関する部分(80ページ~)。

まず再婚禁止期間は「子どもができた場合に『この子誰の子?』っちゅう状況を避けるため」というのはそのとおりです。しかしこのことを、「父親が誰かわからんかったら、オトコはんが逃げるかもしれんってとこですわ」と言い換えて説明しているのは、ちょっと・・・、

どういうことかというと、この再婚禁止期間は次の「722条の嫡出推定」とワンセットなので、まず先にこちらについて説明しますね。

これは、細かいとこ端折りますが、「婚姻届が受理された日から200日以後、離婚届が受理された日から300日以内」に妻が妊娠したら、その子の父親は夫と「推定」する、という制度です。

この「推定」っていうのがちょっとわかりにくいんですが、簡単に言うと、その期間内に生まれた子の父親は、その子を産んだ母親の夫である!といったん決め打ってしまい、その事実をちょっとやそっとのことではひっくり返せない、という仕組みです。

ひっくり返すためには、その父親とされた人が、その子の出生を知ったときから1年以内に、裁判手続をして、自分が父でないということを証明しなければならないのです。

それ以外の方法はありません(その父とされた人が亡くなったなどの場合は別として)。

たとえば、その子が自分の子でないと知りながら何年もぐずぐず悩んでいたりしたら、もうその子の父という立場から逃げる術はないということです。男性にとっても少々酷な場合がありうる制度ですね(苦笑)

これが、ここでいう「推定」の意味。要は、その子の父という人を、法律でガチガチに固定するんです。

なんのためにそんな制度があるのかというと、それは子どものため、なんです。

子どもにとって、母親が誰かわからない、ということはありませんが(最近は「代理母」などの問題もありますが、まあそれはさておき)、父親が誰かわからない、ということは起きえますよね。だから、この人が誰であるかを、さっさと決めうち、それを容易なことでは動かせないようにするのです。

その人は、当然、子どもを扶養する義務を負います。

そのようにして、子どもの扶養義務者としての父をなるべく早くに確定し、安定させることで、子どもの利益を守ろう、というのが、この「嫡出推定」制度なのです。

つまり「嫡出推定」とは、そのネーミングからイメージするような、大時代な封建的な制度ではなくて、ましてや女性を差別するための制度でもなくて、子どもを守るための制度。

その制度設計はいろいろありうるけれど、日本の民法は、両親が結婚・離婚から一定期間内に生まれたという事実で線引きをする、という方法をとりました。

なぜなら、両親の結婚・離婚付近に生まれたのであれば、普通はその両親の子であることはほぼ間違いないだろうし、それが最もはっきりしていて、カンタンな方法だからです。はっきりしていてカンタン、ということは、父子関係をさっさと確定して安定させるために、いいことですよね。

他方、その期間を外れて生まれた子については、比較的容易に父子関係を否定することができます。

典型的には、いわゆる「でき婚」の場合。その場合はたいがい結婚後200日「以内」に子どもが生まれているでしょうから。

この本で例に挙げられている喜多嶋舞・大沢樹夫元夫婦のケースもそうです。婚姻届を出した時点で喜多嶋さんは妊娠3か月くらいだったそうですから、それから200日以内に子どもは生まれているはず。ですから722条とは関係なく、父子関係を否定できます。

ともあれ、たしかにこの、「結婚後200日以後、離婚後300日以内」という期間は、民法制定当時の医療レベルがベースになってるので、今の医療レベルには全く合いませんね。今は概ね22週くらいの早産であれば、子どもは無事に育つと言われていますから。

それにそもそも現実問題として、離婚後300日もたって子どもが生まれた場合、その前夫が父親である可能性って、普通どんだけあるの?というギモンも当然。このあたりの制度の作り方も、たしかに時代がかったものを感じますね。

ですからその期間をもっと短縮すべきだ、という議論は大いにあり得るでしょう。

また、子どもを保護するための制度なんだったら、少なくともその子自身にも、「この人は父でない」という裁判を起こす権利がなきゃおかしい、というのも同様。

でも、それはあくまでも具体的な制度設計の問題であって、この制度そのものが悪者なのではない、女性を差別するための法律ではない、ということは、わかっていただきたいと思います。

そこで、出てくる問題が、最近折々騒がれる「無戸籍」問題の原因になっているという、「離婚成立後300日以内」に生まれた子が、前夫の子とされてしまう、という問題。

DVなどで離婚紛争が長引き、その間に新たなパートナーを得て子どもを授かった場合、やっと離婚できたのにその子は前夫(DV加害者)の戸籍に入れられてしまう。それを避けるためには前夫に裁判を起こしてもらわなければならない。それはとても無理、ということで、「無戸籍児」が生まれています。

たしかに、これは問題です。でも、これについては、別の裁判手続によって、多くの場合はなんとかなるんです。また、法律の運用レベルの工夫でも、なんとかなる。ここではその詳細は割愛しますが、いずれ取り上げたいと思っています。また、拙著『モラル・ハラスメント こころのDVを乗り越える』252ページ~のコラムでも少し触れていますので、関心のある方はぜひご覧ください。

というところで、「再婚禁止期間」に戻りますが、もしも離婚後すぐに女性が別の男性と結婚して、「前の夫との離婚後300日以内」で、かつ「今の夫との結婚後200日以後」に子どもが生まれた場合、両方の夫の子と「推定」される、ということが起きてしまいます。これはまずいだろうということで、その「推定」が重なる期間は再婚できない、としたわけです。

あれ?重なる期間て、100日だけじゃない?

そう、それはそのとおりなんです。ですからずいぶん前から100日に短縮すべきだという意見は出ています。

昔のことだから、念のため?適当に?多めにとって、6か月≒180日にしたみたいですね。

このように、期間の長短だけをとっても、制度の作り方については、問題はたくさんあります。しかも、今の技術なら父親が誰なのか容易に確定できるわけだし、それからこの本でも指摘されているように妊娠可能な年齢でない女性についてはどうなんだ?という問題もある(女性の熟年婚はありえないって、これもやっぱり100年前の意識?)。

そういう、中身の作り方の部分は大いに考え直されるべきですが、制度そのものが、女性を差別するためにあるのではない、つまり、憲法の「両性の平等」との関係で問題にされるようなことではない、ということは、どうかわかってくださいね。

だから、これはあまり触れられることがないんですが、実は「再婚禁止期間6か月」には、いうならば「ただし、」が付いていて、その女性が離婚前から妊娠していた場合、この6か月の間に出産したら、もうそのときから再婚できるんですよ。離婚から6か月経っていなくても。その子は生まれた時点で前夫の子と「推定」されますから、後の夫の子と「推定」が重なることはないからです。

このことからも、この「再婚禁止期間」が、「嫡出推定」が重なることを避けるための仕組み、ということがおわかりいただけると思います。

長くなってしまいましたが、以上の3点にだけ、注意していただいて、ぜひ「知憲」!

1人でも多くの方が憲法に関心を持って、この本を読んで正しく憲法を知ってくださいますように、願っています。

憲法おばちゃん語訳、「ヘイトスピーチ」の問題

2015年1月23日 金曜日

book1 『日本国憲法 大阪おばちゃん語訳』、注意しながら読んでいただきたいことの2つめは、1つめで例に挙げた「表現の自由」との関係で、「ヘイトスピーチ」について、「これって、守らないといけない表現なんでしょうかね?」という問題提起がされているところです(72ページ)。

「ヘイトスピーチ」とは、いうならばむき出しの言葉の暴力、ですよね。

こんな言論、許されるはずがないってことは、たぶん誰もが思うことではないかな。

問題は、「新たな」立法によって、「ヘイトスピーチ」という「新たな」カテゴリーを設けて、それに対して規制をかける、という方法をとることが許されるのかどうか、という点にあると思っています。

「ヘイトスピーチ」とされる言論のほとんどは、名誉毀損や侮辱、脅迫、威力業務妨害など、今すでにある法律で、充分に規制することができるものばかり。(警察はなぜそれをしないのでしょう???)

これらとは別に、新たに、「ヘイトスピーチ」だとか「憎悪表現」だとか「差別的表現」といった類型を設けて、新たに規制の対象にする、そういうやりかたが、はたしていいのかどうか、ということが、「ヘイトスピーチ」の問題なんですよね。

すでにある法律を活用せず、新たに規制をかけるということは、国家権力に対して新たにまたひとつ、「表現の自由」を抑圧する道具を与えることを意味します。

およそ規制とは、その法律の作り方や運用によって、いかようにも濫用・悪用されてしまうもの。そういう危険を、ことこの「言論」という「重い」つまり「デリケートで傷つきやすい」人権において、冒していいのかどうか。そこが、問われているのではないでしょうか。

このあたりも、この本ではもうひとつ言葉が足りなくて、ちょっと残念だなあ・・・、というのが2つめ。

憲法の「はじめの一歩」

2015年1月21日 水曜日

book1

『日本国憲法 大阪おばちゃん語訳』(谷口真由美(著)、文藝春秋(刊))を読みました。

まず何よりも「憲法を知る」という「知憲」からスタートしましょうというこの本、徹底的にわかりやすく憲法を解説しています。

何かと憲法が話題になる今日このごろ。でもどれだけの人が、憲法にはどんなことが書いてあるのかということはもちろん、そもそも憲法って何?ということ、知っているでしょう。

この本に書いてある程度のことは、学校で、せめて高校の社会科でしっかり学ばせてほしいと常々思っています。

学校では、憲法といえば「いちばん強い法律」で、「平和主義」と「基本的人権の尊重」と「国民主権」の3原理を丸暗記させられて終わり。その中身についてきちんと説明されることもない(多くの教師が正しい理解も知識も持っていないように思う)。

かくいう私も、司法試験の勉強を真面目にするようになるまで、憲法のなんたるかなんてぜ~んぜんわかっていませんでした(苦笑)

だからこそ、「知憲」。いっとき「論憲」ということがいわれたけど、その前に「知」らなきゃハナシになりません。

最近、「知憲」というコンセプトの本がけっこう出ていて、実は私も密かに計画しているところなのですが、この本は私が知る限り「はじめの一歩」としていちばんお勧めな一冊です。

特に、4章の「憲法って、誰のモンなん?」は秀逸です。ここはまるごと高校の教科書に転載してほしいくらい。

 

ただ、徹底的にわかりやすい「はじめの一歩」の本の宿命として、どうしても、言葉が足りないことで却って分かりにくかったり、誤解しやすかったり、必要なことが伝わりきらないなあ、と感じることがあります。 この本も全体的にそういうところが避けがたくあるのですが、特に以下の3点に、注意して読んでいただきたいと思います。

1つめは、「人権」の総論的なところで、人権に「重い」とか「軽い」とかがある、という部分(70ページ)。

ここは、必要な言葉がちょっと足りないと思いました。

人権に「重い」「軽い」があるというと、たとえば「表現の自由」(精神的自由権)のほうが「職業選択の自由」(経済的自由権)よりも重要、あるいは価値が高い、みたいなイメージをもってしまいませんか。

ですが、人権の「重い」「軽い」はそういう意味ではありません。

ではどういうことかというと、まず前提として、どんな人権も、国は法律などによって、必要な制限を加えることができます。たとえば、「表現の自由」に対してなら、名誉毀損はいけないよとか、「職業選択の自由」に対してなら、管理売春はいけないよ、というように。

憲法とは、その制限について、ここまでの制限ならよろしい、これ以上はいけない、というように、その制限に厳重な縛りをかけるという役割をもつ法規です。

実際にそのチェックをするのは裁判所ですが、このチェックにおいて、「人権が重い」とか「軽い」が出てくるわけです。

つまり、最も「重い」とされる「表現の自由」については、もう重箱の隅をつつくような厳重なチェックが必要(現実の裁判所が実際にそういう厳重なチェックをしているかどうかはさておき)。

なぜなら、権力の側としてみたら、自分たちに都合の悪い言論は封じたいわけだから、「表現の自由」を抑圧できたら好都合。

でもひとたび「表現の自由」が抑圧されたら、人々の心は萎縮し、言いたいことを言うことをためらってしまう。権力が積極的に抑圧することなく、国民自身が植え付けられた恐怖感で「自粛」するようになってしまう。

再び「自由」を取り戻すのは、とてもたいへんです。

まさに、DVと同じ構造ですね(苦笑)

他方、「軽い」とされるほうは、それよりは緩めのチェックでもよろしい、ということです。

「軽い」とされる人権は、主として「経済的自由権」とよばれる、職業選択の自由とか営業活動の自由などですが、それに対する制限については、弱者も共存共栄できる健全な経済社会を維持するとか、社会保障費などの財源を確保するなどの必要もあるし、そのために国会や行政庁の裁量や判断も尊重しなければいけない、と考えられています。また、その裁量や判断が間違ったときにも、軌道修正は比較的容易です。

たとえば、大規模店舗法で、デパートなどは一定の休業日を設けなければならないとか、夕方の何時以降は営業してはいけないとか、ちょっと前まではありましたよね。デパートの営業活動の自由に対して、かなりきつい規制がかけられていたわけです。でもそれは、周辺の小規模店舗を守るための合理的な規制として、憲法上許されると考えられていました。それが最近は「規制緩和」の嵐で、今のように元日以外は休業せず、夜の9時10時までやってるのが普通になったわけですが。

ともあれ、「表現の自由」は「他よりも価値が高い」から大事にするのではなく、「他よりもデリケートで壊れやすい」から、大事に取り扱いましょう、というイメージでしょうか。

人権の「重い」「軽い」とは、こういう意味です。

とりあえず、今日はここまでにいたします。2つめ以降は、また後日。