注目すべき(?)セクハラ判決

2015年3月3日

 

大きく報道されたのでご存じの方も多いと思いますが、大阪の海遊館で、管理職2人が、20~30代の女性の派遣労働者ら2人に対して、性的で不快感を与える言葉を日常的に繰り返した結果、とうとうその女性らは退職に追い込まれた、このことについて会社が行った降格などの処分が重すぎると、加害者である管理職2人が争った事件です。

原文はこちらです。

はっきりいって、こんなあたりまえの認定がされた判決が「画期的」と注目されてるんだから、日本のお寒いセクハラ事情、前途はまだまだ厳しく険しいと感じざるを得ませんが・・・

とはいえ、日本の裁判所も、あたりまえのことをあたりまえに言うようになった、それはそれで大いなる前進です。その意味で、たまには(というより、選択的夫婦別姓問題などの大法廷回付といい、ここ最近続いているかな)最高裁もいい判断をするものだと率直に思いました。

なんといっても、今回の判決は、職場におけるセクハラという問題の本質を的確に捉え、このように明確に述べています。

被害者が内心でこれに著しい不快感や嫌悪感等を抱きながらも、職場の人間関係の悪化等を懸念して、加害者に対する抗議や抵抗ないしは会社に対する被害の深刻を差し控えたりちゅうちょすることが少なくない

つまり、イヤでもイヤと言えない、職場における自分の立場を守る、場合によっては雇用そのものを守るために、我慢せざるを得ない、そういう状況(力関係)こそが、セクハラの問題の核といってもいいくらいでしょう、この点を、最高裁が改めて明確に宣言してくれたのは、ほんとによかった。

そしてセクハラとされた発言そのものについても、「きわめて露骨で卑わいな発言」「著しく侮蔑的ないし下品な言辞で(被害者ら)を侮辱し又は困惑させる発言」と断じ、「いずれも女性従業員に対して強い不快感や嫌悪感ないし屈辱感等を与えるもの」であったと明確に認定しました。

このように、被害者はイヤと言えない立場にあったこと、問題とされた発言そのものも相手に強い不快感等を与えるものであったこと、この2点を挙げて、判決は、加害者らの「相手はイヤだと言わなかった。だから嫌がっているとは思わなかった。許されていると思っていた。」という弁解を退けています

ここで改めて注目していただきたいのは、加害者らの”悪意”は、一切問題にされていないということ。つまり、「性的」発言によって女性従業員らを不快にさせたり、困惑させたりする”意図”があるかないかということは、その発言が違法なセクハラ行為であるかどうかの判断にあたって、考慮されない、その必要がないということです。

あくまでも、いうならば常識的な社会人の目から見て、当該言動が相手に不快感を与えるものであるかどうかということが、検討されるのです。

そのような言動であれば、加害者も「これを言ったら相手は不快に思うだろう」ということを認識している(できる)はずだし、また当然に認識して(できて)いなければならない、ということですね。

この点は、「単なる冗談」「職場の潤滑油」「親しみの表現」といった、加害者側の、悪意(不快にさせる意図)なんかないのだ、むしろ、職場を明るくしようだとか相手を楽しい気分にさせようという善意だとか好意だとか、そういう意識でしたことであるという趣旨の弁解を排除する、重要なポイントといえるでしょう。

これに対して、「少々のエッチなジョークにいちいち目くじらを立ててたら職場がぎすぎすする」という、加害者層のオジサンたちから聞こえてくる根強い言い分。

よくも恥ずかしげもなく、そんなことが言えたものだといつも思うのです。

「冗談」とは、その場にいる誰もが楽しめて、初めて「冗談」たりうるもの。

「潤滑油」も同じ。その場にいる人たち全員が「潤滑」されなければ意味がありません。

その中の誰か1人が、苦痛や不快感を感じ、それを我慢しているのだとしたら、それは「冗談」でも「潤滑油」でもありえません。

また、「親しみ」の表現は、相手との距離感を適切に図りながら、その距離感に応じてきちんと選ぶことが、大人の当然のエチケットですね。

こうした、対人関係において相手の心情に配慮した態度をわきまえ、あるいは当然のエチケットを守ることで、「職場がぎすぎすする」というのなら、それは、その人たちの人間性・社会性の未熟さゆえの問題。

それを自白するような「オジサン」たちの言い分、でもぱっと聞くともっともらしく聞こえてしまう「オジサン」たちのジョーシキなど、裁判所は一顧だにしませんよ。今回の判決は、そういう宣言とも捉えたいですね。

この判決のもうひとつ重要なポイントは、加害者らが繰り返したとされる発言の中に、

30歳になっても親のすねかじりながらのうのうと生きていけるから、仕事やめられていいなあ、うらやましいわ

毎月、収入どれくらい。時給いくらなん。社員はもっとあるで。

お給料全部使うやろ。足りんやろ。夜の仕事とかせえへんのか。時給いいで。したらええやん。」「実家に住んでるからそんなん言えるねん、独り暮らしの子は結構やってる。MPのテナントの子もやってるで。チケットブースの子とかもやってる子いてるんちゃう。

といった、その言葉の意味内容そのものは必ずしも「性的」とはいいがたい、性差別的ではあるけれども「セクシャル」という語感にはやや違和感を覚える発言も、「セクハラ行為」と明確に位置づけられている点です。

つまり、セクハラとは本来、相手に甚だしい不快感(苦痛、屈辱)を与える性差別的な言動(ジェンダー・ハラスメント)と表現されるべきであったのかもしれませんね。

上記の発言の中にもあるように、女性従業員を「テナントの子」「チケットブースの子」などと呼んだり、女性だけ下の名前で「ちゃん付け」するなどということが、典型的な「セクハラ」の例としてしばしば挙げられながらも、加害者層である「オジサン」たちにはなかなか理解されません。

それは、「セクシャル」「性的」という言葉なり語感なりに囚われているからでしょうね。

これらの発言がなぜ「セクハラ」とされるかといったら、それは、女性を一人前の大人扱いをしない、自分たちと対等な働き手としてみないといったように、女性であるがゆえに差別する意識が露骨に現れていることが、相手に苦痛や屈辱を与えるからです。

職場において、女性に苦痛や不快感を与える言動の典型が「セクシャル」「性的」なものであることはまちがいないけれども、必ずしも文字どおり「性的」な意味内容の言動だけが問題なわけじゃありません。そのことは、ぜひぜひ理解していただきたいと思います。

 

憲法おばちゃん語訳、両性の平等・再婚禁止・離婚後300日規定

2015年2月5日

 

 

book1最後の3点め、これが本書で最も、というか唯一、残念でならない部分。両性の平等ということに関して、2つあります。

ひとつは、戦前の憲法下では、妻は「無能力」とされていた、ということの説明の部分。

「結婚するまでは父親の、結婚してからは夫のモノとされ」ていた、「今でいうたら、スーパーマーケットのポイントカードすらつくられへんみたいな感じ」というところです。(79ページ)

これは、ちょっと違います。

旧憲法の時代、結婚した女性が、たとえば家を買うとか、大きな借金をするとか、そういう重要な契約をするには、夫の許可が必要であった、ということはありました。

これは、「無能力」というよりも「制限能力」というべきもので、あらゆる契約ができないというのではなく、一定の重要な(言い換えれば、大きなお金のからむ)契約に限って、夫の許可が必要とされた、というものでした。今で言う、スーパーでの買い物やポイントカードのような日常的なものは、夫の許可は必要ではありません。(もちろん、こんな制度そのものが不当な男女差別であることはいうまでもありませんよ)

また、女性も成人していれば、結婚する前はこのような制限はなく、一人前の成人と扱われましたから、成人女性に関しては「結婚するまでは父親のモノ」というわけでもありません(それで結婚したとたん、「制限能力」とされたんです。おかしなハナシであることは間違いありません)

当然ながら、成人するまでは親の親権下にあることは、今も昔も男も女も同じこと。

未成年者は、基本的にはどんな契約をするにも親権者の同意が必要です。(でもポイントカードくらいは未成年者でも作れます)

繰り返しですが、成人の結婚した女性がこのように、夫に従属するみたいにされたことは、不合理きわまりない男女差別でした。

それはそのとおりなのですが、その説明の方法として、この本に記載されている上記の表現はいずれも、正確ではないといわなければなりません。

まあこれは、本論にはあまり関係のないことなのですが、やはりちょっと残念。

何より残念なのが次の点。

民法の、女性の「再婚禁止期間」と、「722条の嫡出推定」に関する部分(80ページ~)。

まず再婚禁止期間は「子どもができた場合に『この子誰の子?』っちゅう状況を避けるため」というのはそのとおりです。しかしこのことを、「父親が誰かわからんかったら、オトコはんが逃げるかもしれんってとこですわ」と言い換えて説明しているのは、ちょっと・・・、

どういうことかというと、この再婚禁止期間は次の「722条の嫡出推定」とワンセットなので、まず先にこちらについて説明しますね。

これは、細かいとこ端折りますが、「婚姻届が受理された日から200日以後、離婚届が受理された日から300日以内」に妻が妊娠したら、その子の父親は夫と「推定」する、という制度です。

この「推定」っていうのがちょっとわかりにくいんですが、簡単に言うと、その期間内に生まれた子の父親は、その子を産んだ母親の夫である!といったん決め打ってしまい、その事実をちょっとやそっとのことではひっくり返せない、という仕組みです。

ひっくり返すためには、その父親とされた人が、その子の出生を知ったときから1年以内に、裁判手続をして、自分が父でないということを証明しなければならないのです。

それ以外の方法はありません(その父とされた人が亡くなったなどの場合は別として)。

たとえば、その子が自分の子でないと知りながら何年もぐずぐず悩んでいたりしたら、もうその子の父という立場から逃げる術はないということです。男性にとっても少々酷な場合がありうる制度ですね(苦笑)

これが、ここでいう「推定」の意味。要は、その子の父という人を、法律でガチガチに固定するんです。

なんのためにそんな制度があるのかというと、それは子どものため、なんです。

子どもにとって、母親が誰かわからない、ということはありませんが(最近は「代理母」などの問題もありますが、まあそれはさておき)、父親が誰かわからない、ということは起きえますよね。だから、この人が誰であるかを、さっさと決めうち、それを容易なことでは動かせないようにするのです。

その人は、当然、子どもを扶養する義務を負います。

そのようにして、子どもの扶養義務者としての父をなるべく早くに確定し、安定させることで、子どもの利益を守ろう、というのが、この「嫡出推定」制度なのです。

つまり「嫡出推定」とは、そのネーミングからイメージするような、大時代な封建的な制度ではなくて、ましてや女性を差別するための制度でもなくて、子どもを守るための制度。

その制度設計はいろいろありうるけれど、日本の民法は、両親が結婚・離婚から一定期間内に生まれたという事実で線引きをする、という方法をとりました。

なぜなら、両親の結婚・離婚付近に生まれたのであれば、普通はその両親の子であることはほぼ間違いないだろうし、それが最もはっきりしていて、カンタンな方法だからです。はっきりしていてカンタン、ということは、父子関係をさっさと確定して安定させるために、いいことですよね。

他方、その期間を外れて生まれた子については、比較的容易に父子関係を否定することができます。

典型的には、いわゆる「でき婚」の場合。その場合はたいがい結婚後200日「以内」に子どもが生まれているでしょうから。

この本で例に挙げられている喜多嶋舞・大沢樹夫元夫婦のケースもそうです。婚姻届を出した時点で喜多嶋さんは妊娠3か月くらいだったそうですから、それから200日以内に子どもは生まれているはず。ですから722条とは関係なく、父子関係を否定できます。

ともあれ、たしかにこの、「結婚後200日以後、離婚後300日以内」という期間は、民法制定当時の医療レベルがベースになってるので、今の医療レベルには全く合いませんね。今は概ね22週くらいの早産であれば、子どもは無事に育つと言われていますから。

それにそもそも現実問題として、離婚後300日もたって子どもが生まれた場合、その前夫が父親である可能性って、普通どんだけあるの?というギモンも当然。このあたりの制度の作り方も、たしかに時代がかったものを感じますね。

ですからその期間をもっと短縮すべきだ、という議論は大いにあり得るでしょう。

また、子どもを保護するための制度なんだったら、少なくともその子自身にも、「この人は父でない」という裁判を起こす権利がなきゃおかしい、というのも同様。

でも、それはあくまでも具体的な制度設計の問題であって、この制度そのものが悪者なのではない、女性を差別するための法律ではない、ということは、わかっていただきたいと思います。

そこで、出てくる問題が、最近折々騒がれる「無戸籍」問題の原因になっているという、「離婚成立後300日以内」に生まれた子が、前夫の子とされてしまう、という問題。

DVなどで離婚紛争が長引き、その間に新たなパートナーを得て子どもを授かった場合、やっと離婚できたのにその子は前夫(DV加害者)の戸籍に入れられてしまう。それを避けるためには前夫に裁判を起こしてもらわなければならない。それはとても無理、ということで、「無戸籍児」が生まれています。

たしかに、これは問題です。でも、これについては、別の裁判手続によって、多くの場合はなんとかなるんです。また、法律の運用レベルの工夫でも、なんとかなる。ここではその詳細は割愛しますが、いずれ取り上げたいと思っています。また、拙著『モラル・ハラスメント こころのDVを乗り越える』252ページ~のコラムでも少し触れていますので、関心のある方はぜひご覧ください。

というところで、「再婚禁止期間」に戻りますが、もしも離婚後すぐに女性が別の男性と結婚して、「前の夫との離婚後300日以内」で、かつ「今の夫との結婚後200日以後」に子どもが生まれた場合、両方の夫の子と「推定」される、ということが起きてしまいます。これはまずいだろうということで、その「推定」が重なる期間は再婚できない、としたわけです。

あれ?重なる期間て、100日だけじゃない?

そう、それはそのとおりなんです。ですからずいぶん前から100日に短縮すべきだという意見は出ています。

昔のことだから、念のため?適当に?多めにとって、6か月≒180日にしたみたいですね。

このように、期間の長短だけをとっても、制度の作り方については、問題はたくさんあります。しかも、今の技術なら父親が誰なのか容易に確定できるわけだし、それからこの本でも指摘されているように妊娠可能な年齢でない女性についてはどうなんだ?という問題もある(女性の熟年婚はありえないって、これもやっぱり100年前の意識?)。

そういう、中身の作り方の部分は大いに考え直されるべきですが、制度そのものが、女性を差別するためにあるのではない、つまり、憲法の「両性の平等」との関係で問題にされるようなことではない、ということは、どうかわかってくださいね。

だから、これはあまり触れられることがないんですが、実は「再婚禁止期間6か月」には、いうならば「ただし、」が付いていて、その女性が離婚前から妊娠していた場合、この6か月の間に出産したら、もうそのときから再婚できるんですよ。離婚から6か月経っていなくても。その子は生まれた時点で前夫の子と「推定」されますから、後の夫の子と「推定」が重なることはないからです。

このことからも、この「再婚禁止期間」が、「嫡出推定」が重なることを避けるための仕組み、ということがおわかりいただけると思います。

長くなってしまいましたが、以上の3点にだけ、注意していただいて、ぜひ「知憲」!

1人でも多くの方が憲法に関心を持って、この本を読んで正しく憲法を知ってくださいますように、願っています。

モラル・ハラスメント(モラハラ)という言葉

2015年1月29日

「モラル・ハラスメント」(モラハラ)という言葉が、かつての「セクハラ」のような誤解と偏見をはらんで広がろうとしています。

私がここでどんなにもどかしい思いで、一生懸命言葉を発しても、広まってしまった誤解や偏見を修正する力など全くない。

けれども、私の発する言葉(情報)を必要とする人には、きっと届くだろうことを祈って、私は私の場所で、語り続けようと思います。

それは、拙著でも随所にその問題意識を記しましたが、「モラル・ハラスメント」という言葉に囚われないでほしい、ということ。

モラル・ハラスメントという言葉は、何とも言葉にしようのなかった苦しみに、明確なかたちを与えてくれます。それが「暴力」なんだということを、気づかせてくれます。

この辛さは、自分が悪いからでも、弱いからでも、至らないからでもない、被害妄想でもない、相手は正しいことをしているのではない、理不尽な暴力を振るっているだけなんだ、ということ。だから辛くてあたりまえなんだということ、そして、そこから逃げてもいいんだ、ということを、この言葉は教えてくれます。

この「気づき」の後には、加害者との対処の仕方を考える重要な指針を与えてくれます。

加害者には、独特の思考パターン・行動パターンがあります。

独特のパーソナリティといってもいいでしょう。

それは、あなた自身が相手との生活の中で、嫌というほど骨身にたたき込まれたことでしょう。

相手の支配下にいたときには、それがあたりまえだとか普通だとか思いこんでいたであろう、その異常な思考・行動パターンを、異常なんだとはっきり認識した上で、冷静に整理して、頭の中にしっかり入れておく。

それは、別居の方法やタイミングに始まり、今後の離婚紛争や子どもとの面会交流、離婚成立後にも起きてくるいろいろな問題への対処を考えたり見通しを立てるなど、今後この問題に対処するあらゆる場面で、最も重要な指針になります。

なにより、その中で絶え間なく加えられる有形無形の嫌がらせや攻撃(それはきっと、あなたにしかそれと分からないものも少なくないでしょう)から、自分の心を守るうえでも、大いに役に立ちます。いうならば、相手の嫌がらせの手口と手の内が分かっているということですから、以前ほど傷ついたり打撃を受けたりせずにやり過ごせる、精神的なゆとりができます。

あなたは、そこまでにしましょう。

ときに、相手の人格をもっと深く分析したり、非難したり報復したりしたくもなるでしょう。

それを全くするなとは言いません。

そういう時期もある。

でも、そこそこにしてください。

相手と決別すると決めたのなら、もう相手のことも考えない。しっかり前を向いて、自分たちの幸せのことだけを考えて、自分の人生を歩いていきましょう。しんどいときは、誰かの手を借りて。

憲法おばちゃん語訳、「ヘイトスピーチ」の問題

2015年1月23日

book1 『日本国憲法 大阪おばちゃん語訳』、注意しながら読んでいただきたいことの2つめは、1つめで例に挙げた「表現の自由」との関係で、「ヘイトスピーチ」について、「これって、守らないといけない表現なんでしょうかね?」という問題提起がされているところです(72ページ)。

「ヘイトスピーチ」とは、いうならばむき出しの言葉の暴力、ですよね。

こんな言論、許されるはずがないってことは、たぶん誰もが思うことではないかな。

問題は、「新たな」立法によって、「ヘイトスピーチ」という「新たな」カテゴリーを設けて、それに対して規制をかける、という方法をとることが許されるのかどうか、という点にあると思っています。

「ヘイトスピーチ」とされる言論のほとんどは、名誉毀損や侮辱、脅迫、威力業務妨害など、今すでにある法律で、充分に規制することができるものばかり。(警察はなぜそれをしないのでしょう???)

これらとは別に、新たに、「ヘイトスピーチ」だとか「憎悪表現」だとか「差別的表現」といった類型を設けて、新たに規制の対象にする、そういうやりかたが、はたしていいのかどうか、ということが、「ヘイトスピーチ」の問題なんですよね。

すでにある法律を活用せず、新たに規制をかけるということは、国家権力に対して新たにまたひとつ、「表現の自由」を抑圧する道具を与えることを意味します。

およそ規制とは、その法律の作り方や運用によって、いかようにも濫用・悪用されてしまうもの。そういう危険を、ことこの「言論」という「重い」つまり「デリケートで傷つきやすい」人権において、冒していいのかどうか。そこが、問われているのではないでしょうか。

このあたりも、この本ではもうひとつ言葉が足りなくて、ちょっと残念だなあ・・・、というのが2つめ。

憲法の「はじめの一歩」

2015年1月21日

book1

『日本国憲法 大阪おばちゃん語訳』(谷口真由美(著)、文藝春秋(刊))を読みました。

まず何よりも「憲法を知る」という「知憲」からスタートしましょうというこの本、徹底的にわかりやすく憲法を解説しています。

何かと憲法が話題になる今日このごろ。でもどれだけの人が、憲法にはどんなことが書いてあるのかということはもちろん、そもそも憲法って何?ということ、知っているでしょう。

この本に書いてある程度のことは、学校で、せめて高校の社会科でしっかり学ばせてほしいと常々思っています。

学校では、憲法といえば「いちばん強い法律」で、「平和主義」と「基本的人権の尊重」と「国民主権」の3原理を丸暗記させられて終わり。その中身についてきちんと説明されることもない(多くの教師が正しい理解も知識も持っていないように思う)。

かくいう私も、司法試験の勉強を真面目にするようになるまで、憲法のなんたるかなんてぜ~んぜんわかっていませんでした(苦笑)

だからこそ、「知憲」。いっとき「論憲」ということがいわれたけど、その前に「知」らなきゃハナシになりません。

最近、「知憲」というコンセプトの本がけっこう出ていて、実は私も密かに計画しているところなのですが、この本は私が知る限り「はじめの一歩」としていちばんお勧めな一冊です。

特に、4章の「憲法って、誰のモンなん?」は秀逸です。ここはまるごと高校の教科書に転載してほしいくらい。

 

ただ、徹底的にわかりやすい「はじめの一歩」の本の宿命として、どうしても、言葉が足りないことで却って分かりにくかったり、誤解しやすかったり、必要なことが伝わりきらないなあ、と感じることがあります。 この本も全体的にそういうところが避けがたくあるのですが、特に以下の3点に、注意して読んでいただきたいと思います。

1つめは、「人権」の総論的なところで、人権に「重い」とか「軽い」とかがある、という部分(70ページ)。

ここは、必要な言葉がちょっと足りないと思いました。

人権に「重い」「軽い」があるというと、たとえば「表現の自由」(精神的自由権)のほうが「職業選択の自由」(経済的自由権)よりも重要、あるいは価値が高い、みたいなイメージをもってしまいませんか。

ですが、人権の「重い」「軽い」はそういう意味ではありません。

ではどういうことかというと、まず前提として、どんな人権も、国は法律などによって、必要な制限を加えることができます。たとえば、「表現の自由」に対してなら、名誉毀損はいけないよとか、「職業選択の自由」に対してなら、管理売春はいけないよ、というように。

憲法とは、その制限について、ここまでの制限ならよろしい、これ以上はいけない、というように、その制限に厳重な縛りをかけるという役割をもつ法規です。

実際にそのチェックをするのは裁判所ですが、このチェックにおいて、「人権が重い」とか「軽い」が出てくるわけです。

つまり、最も「重い」とされる「表現の自由」については、もう重箱の隅をつつくような厳重なチェックが必要(現実の裁判所が実際にそういう厳重なチェックをしているかどうかはさておき)。

なぜなら、権力の側としてみたら、自分たちに都合の悪い言論は封じたいわけだから、「表現の自由」を抑圧できたら好都合。

でもひとたび「表現の自由」が抑圧されたら、人々の心は萎縮し、言いたいことを言うことをためらってしまう。権力が積極的に抑圧することなく、国民自身が植え付けられた恐怖感で「自粛」するようになってしまう。

再び「自由」を取り戻すのは、とてもたいへんです。

まさに、DVと同じ構造ですね(苦笑)

他方、「軽い」とされるほうは、それよりは緩めのチェックでもよろしい、ということです。

「軽い」とされる人権は、主として「経済的自由権」とよばれる、職業選択の自由とか営業活動の自由などですが、それに対する制限については、弱者も共存共栄できる健全な経済社会を維持するとか、社会保障費などの財源を確保するなどの必要もあるし、そのために国会や行政庁の裁量や判断も尊重しなければいけない、と考えられています。また、その裁量や判断が間違ったときにも、軌道修正は比較的容易です。

たとえば、大規模店舗法で、デパートなどは一定の休業日を設けなければならないとか、夕方の何時以降は営業してはいけないとか、ちょっと前まではありましたよね。デパートの営業活動の自由に対して、かなりきつい規制がかけられていたわけです。でもそれは、周辺の小規模店舗を守るための合理的な規制として、憲法上許されると考えられていました。それが最近は「規制緩和」の嵐で、今のように元日以外は休業せず、夜の9時10時までやってるのが普通になったわけですが。

ともあれ、「表現の自由」は「他よりも価値が高い」から大事にするのではなく、「他よりもデリケートで壊れやすい」から、大事に取り扱いましょう、というイメージでしょうか。

人権の「重い」「軽い」とは、こういう意味です。

とりあえず、今日はここまでにいたします。2つめ以降は、また後日。

さっそく嬉しい感想が届きました

2014年7月19日

拙著『モラル・ハラスメント こころのDVを乗り越える』で取り上げさせていただいたかつての依頼者(被害者)B子さんが、さっそく感想を送ってくださいました。

「そうそう」「そうだった そうだった」「同じー」などと思いながら読んでいました。 本当にやぱりモラハラ夫は皆、ハンコを押したように同じ言動なので、不謹慎ですが、ちょっと笑ってしまいます。 あの時は本当に大変でしたが、思い出して少し笑ってしまえる自分に随分と回復したものだなーと思いました。

(中略)

ある程度年月が経ち、先生がおっしゃられていた「学び落とし」の話は本当にそうだったと今、思う日々です。

当初は子ども達が、面接で元夫の悪影響を受けないかと心配していましたが、 確かに年に数回会う時間で子ども達が父親から学べる時間というものは大したものではなかったです。

それよりも『私が』子ども達をしっかりと育てていくこと、 悪影響を受けない人格に子ども達を育てることが大切だと今ははっきりとわかりました。 また、今、それができる環境であることに感謝しています。

「乗り越える」ってまさに、こういうことなんだと感じました。

新しい本が届きました

2014年7月11日

私たちの新しい本です。

前著『Q&Aモラル・ハラスメント』から7年半、たくさんの勉強や経験をさせていただきました。 その蓄積が、おかげさまで、こうしてかたちになりました。

『モラル・ハラスメント こころのDVを乗り越える』 内容はこちらです(出版社のウェブサイト)

20140711110108_00001_20140711114629709あまりにもたくさんのことを書きすぎて、値段も少し高めになってしまった上、文字がきつきつで読みやすさという点でも今ひとつではあります。 でもその分、知っておいていただきたいことを、最大限盛り込みました。 すてきな挿絵も描いていただいています。

ただ、この本、アマゾンからは買えないんです。出版社が、アマゾンのポイント制度に抗議して、出荷停止していて。 それでちょっと不便をおかけして申し訳ないのですが、当事務所でもある程度の部数を備え置いておきますので、ご希望の方はお知らせください。著者割引価格+メール便送料80円でご送付いたします。 楽天ブックスその他の書店では買えます。

待ちに待った本

2014年4月19日

416H9RxyVDL__SL500_AA300_ またずいぶん長らくブログを放置してしまいました。

この間にも書きたいことはたくさんありましたが、それはひとまずぜ~んぶ置いて、今日はぜひご紹介したい本があります。

夫からの壮絶な「いじめ」を受け続けた結婚生活と決別して、新たな幸せを手に入れたまっち~さんという女性が、その体験をブログに書いておられたのですが、それがとうとう書籍化されました。

読んでいて辛くもなるけれど、たくさんの力をもらえる本です。

『夫からのモラル・ハラスメント 愛する人からの精神的イジメ 苦しいのはあなた一人じゃない』(河出書房新社)

前著『Q&Aモラル・ハラスメント』の共著者の谷本さんも、その後、とてもいい本を出されています。 41vPIyCBztL__SS400_2 『カウンセラーが語る モラルハラスメント 人生を自分の手に取りもどすためにできること』(晶文社)

いつまでも被害者で居続けてはいけない。前向きに、自分の幸せに向けて歩もう。 2冊ワンセットで、すべての被害者と、被害者を支えるご家族や友人、支援者の方々に読んでいただきたいと思います。

実は私たちも、『こころのDV モラル・ハラスメントを乗り越える』という本を、まもなく出版する予定です。

前著『Q&Aモラル・ハラスメント』から6年あまり。その間に、たくさんの経験と勉強をさせていただきました。 それをできる限り盛り込んで、新しいガイドブックを作りました。 ちょっと厚くて字も細かくて、読みにくいかもしれませんが、この本を必要とする人の手に届きますように。

愛は傷つけない(智子)

2011年1月25日

夫がきついことを言ったりしたりするのは、単なる照れ隠しだ。 愛情の裏返しだ。 心の奥底ではちゃんと愛情を持ってるはずだ。 仕事のストレスがたまってるんだ。 疲れてて余裕がないだけだ。 私が受け止めてあげなきゃ。 本当は私のことを大事に思っているはずだ。 だって優しいときもあるから。 昔は優しかったから。 冷たい人であるわけがない。 本当は優しい人だけど、私には甘えてるんだ。

そういう「解釈」が必要な場面は、もちろんあると思います。 でも、それが結婚生活を通じて、常にそう考えていなきゃいけないとしたら、その「解釈」自体を見直す勇気をもってほしいと思います。

いつも、「きっと~だ」「○○のはずだ」ばかりでは、安心感はありません。 愛情とは、安心感や安全感をもたらすものです。 それをもたらさないものは、愛情とはいいがたいと思います。

『愛は傷つけない』という本があります。

41g76WAx+UL__SS500_ 当事務所の応接室にも置いてあって、ご相談にいらっしゃる方の多くがお待ちになっている間、読んでおられます。子ども向けの絵本や猫の写真集に混じっておいてあるのですが、すぐに目にとまるようです。

そう、ほんとにそのとおり、これに尽きると思う。「愛は傷つけない」のです。 たとえ間違って傷つけることがあっても、すぐに手当てするのです。 それがいつも傷つけてばかり、手当もしてくれない。そこにいるのが辛い。 そうであれば、勇気を持って、その「愛」を疑ってほしい。

とてもいい本です。一歩を踏み出せない方に、ぜひお勧めしたい一冊です。

「欠損家庭」という言葉(智子)

2011年1月19日

ずいぶん長いこと、ブログを放置してしまいました。  公私ともにとっても忙しくて、気持ちの余裕がブログにまで至らなくて。

弁護士のサガか、「気楽に」文章を書くということがなんとなくできないというのもあって。  書くなら、「きちんと」書かねば、という意識が強いのです。

でも、ブログはもうちょっと、肩の力を抜いて、「気楽に」書いていけたらな、と思います。  まさに「雑記帳」の名前のとおり

さて、先日、ご相談者の口から飛び出したこの言葉。

「欠損家庭」

いうまでもなく、親のどちらかが「欠けている」家庭のことです。死別、離別、もともとシングルといった理由は問わず、その点では価値中立的とはいえるかもしれません。子どもの非行とか虐待とかを研究するうえでよく使われている言葉だと思います。

それにしても、イヤな言葉です。  でも、「結婚生活が辛い」と思って、離婚を考える方々の悩みを、これほど的確に表現している言葉もないのではないかと、しみじみ感じさせられました。

でもでも。  自信を持って欲しいです。  物理的に「欠損」している家庭ではなく、「機能的欠損家庭」と呼ばれる家庭が問題なのです。  形式的に両親がそろっていても、どちらかまたは両方の「機能」が「欠けている」家庭。

一方が他方に有形無形の暴力を振るう家庭はその一つの典型といえます。  自信を持って、そこから逃げて、そんな「家庭」は壊して欲しい。改めて、そう思いました。